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[C3065] 兵戈無用!

兵戈無用と憶えつつ、素振りを欠かさぬのは何故か、
昨日が猫左の稽古初めにて御座候(^^;
年末に喰らったインフルエンザの甚だしき難渋大方ならず、
正月から喉笛の鳴ること三条河原の如し。

何やら耳の痛いエントリにいつの間にやら、仏道と武道が混同してます。
執着する人たちは似たり寄ったりですな。
武道は外道。やたら演武に血道をあげる亡者どもの腐臭にうんざりの昨今です。
  • 2015-02-08 14:44
  • 猫左
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[C3078] いやいや

猫左さんを相手に釋迦に説法ですが、このエントリ冒頭でムスリム過激派をディスってる箇処、
> 敵があらわれたなら戰え、勝て、とは教えにあるけれど殺せ、滅ぼせとは教えにない
こそ、われわれが修める武道の神髄であります。 武道マニアのなかには、いわく
 古武道は競技武道とちがって相手を殺す技だから~
なんつってハンパな自己滿足にイロどられて得意氣に語りたがる輩いますけれども、じっさい戰っても葬り去らずして勝つ法を求める思想に基づいた技術の体系が古武道だし。 尊流の演武を拜見してても、ここらへんあたりまでが詰めあいであって以下ラストは 自在な餘地を残す爲 の追加操作であると推察しとります。 、じじつ、わたしが修學する流派でも、いっぱつ脈処だけ斷っといて
 このあたりで収めまへんか、どないや
的な技法になっておる風味です。 ようするに暴力の場を望ましい最低限の無事に制御しておく、あとを残す、そのために培われてきた先人たちの智慧のアレかと想像してます。 伊達や酔狂で内部抗爭くり返してきたわけではない、われわれ父祖の經驗に基づいたナニであろうかという感じで。
逆に耳が痛いのは、きのう稽古初めですってえ…わたしの稽古初めなんて、ことし九月になりそう。
  • 2015-02-09 19:20
  • タノQ
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お前はもう佛所遊履兵戈無用

敵があらわれたなら戰え、勝て、とは教えにあるけれど殺せ、滅ぼせとは教えにない。 なのに殺そう滅ぼそうと努める人らが教徒の中にいれば そういう教えなんだ と教徒でない人らは思ってしまう。 …ていうのは他宗のことだけど昨今とやかく現代佛教を批判したがる人らがいるのも、やはりイチ部の僧侶さんらとか、いわば佛教マニアの人らとか、それらの言動に責任あるかも知れんです。
そもそも、よび方からして佛教じゃなく 佛道 なんだな、ただしくは。 佛教つったら、それは經典のことを指して申すなり。 ついでに、わたしのいうマニアとはですな、じぶんの手柄でもないのに自慢氣なトークこいて知識をてらってみたがる、いちいち借りもんのコトバで語りたがる、そういうウザ~い連中のことを指して申すなり。 よくいるでしょグルメとか通に。 つうはツウでも 痛 ですわ。
 なんつって オホホ ( ̄▽ ̄)v
こほん。 マニアじゃなくオタクだったら、いいんですけどさ。 オタクってのは、じぶんを飾る目的ではなしに銭と時間をついやして、こつこつ參加してく人ら、なにか語るさいには自慢トークぬき、とにかくリスペクトがある人ら、を指して申すなり。 我國の文化をささえてる人らもオタクであってマニアではナッシュビル。 マニアは、ただ消費するだけの人ら。 マニアは、なにも受け継がず生まず育てず、つたえるものもナッシュビル。 どこを切ってもナッシュビル。 だって中身がナッシュビル。

いつのまにやら脱線トークでした、すいません。 ナッシュビル方面から苦情きそうだし ( ̄▽ ̄;
えーと、なんの話しでしたっけ。 たしか昨今とやかく現代佛教を批判したがる人らの件だったかな。 こんかいは、そうした批判の論點を、いっぱつネタにエントリかましてみたい。
(やれやれ↓つづく)
(つづき)
現代佛教を批判したがる人ら、ていうのは宗教學者のイチ部とか、いわゆる原始佛教にかぶれた人らとかです。 ようするに、いまの佛教は釋迦の教えとちがう、とかいう感じで批判したいらしい。 この人ら釋迦に直截あって話しを聴いたことあるのかは別としてコダワリの原始佛教に情熱もってるのも本人さんの自由として、どうやら半端な解釋で批判かましておるに過ぎません。 まず最初に、

 いわく いまの佛教は釋迦の教えとちがう
なんだ↑これ。 たとえば武道の話し、いま傳わってる古武道は武道ではない、ていうようなイチャモンでしょ。 我國の劔法の祖系は鹿島七流か神道流とされてますが、ならば後世に派生してきた流派みな劔法ではないというような理屈と、いっしょやん。 新陰流も一刀流も劔法とはちがう、みたいな。
おいおいベイベー 冗談も、やすみ休み、いいたまえ ( ̄з ̄)
祖系から研究發展してきて、けっか諸ゝの各流派が存在してまして、これみなすべて劔法でござる。 あたり前じゃん。 まともな人なら理解できる話し。 だれも、いま傳わってる古武道は武道ではない、なんて、いわない。 それと同じで、いま傳わってる佛道は釋尊から研究發展してきて、けっか諸ゝの各門派が存在してるのであって、それを釋尊の教えとちがうから、ていう批判は、あたりまへん。
ちなみに、よく原始佛教マニアが上座部を信奉しておるけど、あれも釋尊の沒後うまれた各門派の、たんなる一つに過ぎません。 上座部の、ここがこーなってあれがあーなって式のヤヤコシイ理論を釋尊みづからは説いてないし。 つって、わたしも釋尊に直截おあいして話しを聴いたわけではありま温泉ですが、しかし原始佛典の最古の部分とされる經典に、ここがこーなってあれがあーなって式の論法は登場しない。
とどのつまり上座部だけが佛道なのではなく禪も密教も淨土系も、これみな佛道なのだ。

 いわく 先祖供養は佛教ではない
ものを知らん人らは↑こういうことを、いう。 よく耳にする葬式佛教うんぬん批判なり。 あのですな、お寺の起源を知らんがゆえにクチにしとるんでしょうけど、そもそも亡くなった人物を祀る施設が寺院の起源なのであります。 釋尊の在世中にあった祗樹給孤獨園(祗園精舎)や鹿子母や竹林や大林などなどの精舎は修行道場であり、いわゆる叢林つまり現在の禪宗の僧堂の起源であっても寺ではなく釋尊の沒後に遺骨を分け(八つといわれる)それぞれ塔を建てて祀った施設(卒塔婆の語源)こそが、こんにちの寺の起源でござる。 釋尊の沒後すぐの時代に佛道では亡くなった先人をリスペクトしつつ祀る行爲が採用されておる。
だのに先祖供養は佛道ではないとは、これ妄言もはなはだしい限り。

 いわく 戒名に値段があるのはおかしい
おかしい↑のは沒後に誡名を贈る習慣でして、そこへ価格うんぬんもチョーまとハズレな批判なんだな、じっさい。 そもそも誡名てのは佛道に入信するさい誡を授かった佛弟子としての證でござる。 つまりクリスチャンの洗禮名と同じで在家であっても生前から得てるのが本來あたり前の代もん。 それが徳川政権期に佛道の信徒でない人らまで民衆すべてを入信させちゃったから、ついつい沒後ようやく誡を授ける習慣に、ていうわけだ。 沒後作僧とかいうアレの定着なり。
で誡名に価格やランクが、ていう指摘について、すこしは佛道を學んで習うてください、としか答えがないです。 學ぶていうのは、やたらと教義を頭に詰めこんで語れるようになる、てな話しではございまへん。 マニアになるなオタクになれ、ちう話しだ。 お寺が何で維持されてますかというと、ずばり在家からの後援とか貢献でござる。 あんまり後援方面や貢献系に疎かった人が、さて誡を授かろうとしながらも、そのときでさえ布施を必要と感じないのかな。 ていうか必要最低限の布施すら惜しむ段階で信徒として失格じゃん。
お寺は場合によって無料で授誡したり葬儀したりも、しますよ。 そんなことも知らんのかいな。
誡名にランクあるのは、なぜそうなったのか分からんです。 浄土系ならランクが存在しないけど。 けっきょく寺側から視て貢献度で信徒を区分してるようなカタチですが、では信徒は何を寺に期待してるのかな。 期待はしないが結果だけは、ほしいですか。 だったら期待してないし佛事への參加を惜しむし、それでいて結果は問題にしたいしで、すなわちモンスター信徒やがな。

 いわく 坊主まる儲け
でました↑バチあたりな批判。 たしかに宗教法人は税制で優遇されてます。 されてますが、その理由は戰前戰中とおして國家が國民を戰爭向きに適した民族性へと改造するため宗教を利用して宗教に干渉してた、いまわしい過去があるからです。 だからの、いま不干渉で税制優遇なのだ。
ひとクチに優遇つって、じっさい優遇されとるのは宗教法人であって從業員なんら恩恵うけてやしまへん。 住職や寺族の給與や個人的な支出には、ふつうに課税されてます、あたり前じゃん。
宗教にあたらない範疇へは課税して宗教行爲には不干渉ていう、それだけの話し。
わかりましたか。

以上きょうのエントリこんなとこ。
畫像を載せられなくなって更新サボってますが、こう畫像なしで文字ヅラヅラ掲載してみて、いったい閲覧者さんら、おもろいとか興味あるとか感じてくださるのかな。 ま、いっか。
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正月から喉笛の鳴ること三条河原の如し。

何やら耳の痛いエントリにいつの間にやら、仏道と武道が混同してます。
執着する人たちは似たり寄ったりですな。
武道は外道。やたら演武に血道をあげる亡者どもの腐臭にうんざりの昨今です。
  • 2015-02-08 14:44
  • 猫左
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猫左さんを相手に釋迦に説法ですが、このエントリ冒頭でムスリム過激派をディスってる箇処、
> 敵があらわれたなら戰え、勝て、とは教えにあるけれど殺せ、滅ぼせとは教えにない
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 古武道は競技武道とちがって相手を殺す技だから~
なんつってハンパな自己滿足にイロどられて得意氣に語りたがる輩いますけれども、じっさい戰っても葬り去らずして勝つ法を求める思想に基づいた技術の体系が古武道だし。 尊流の演武を拜見してても、ここらへんあたりまでが詰めあいであって以下ラストは 自在な餘地を残す爲 の追加操作であると推察しとります。 、じじつ、わたしが修學する流派でも、いっぱつ脈処だけ斷っといて
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逆に耳が痛いのは、きのう稽古初めですってえ…わたしの稽古初めなんて、ことし九月になりそう。
  • 2015-02-09 19:20
  • タノQ
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    まあ…あれですな
    皮膚呼吸って奴?
    ハハハ( ̄▽ ̄)v

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