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お前はもう不論階梯勝劣

ことしも臘八は期間中ウチにいるとき坐れるだけ坐ろうとブログやすんでました。 うほうほ( ̄▽ ̄)v
つって、よく坐れた日で四ちゅう…やれやれ、そんなもんか。 退院して20年ちかくぶりに坐禪を再開したころなど一日十ちゅう以上、坐れたもんでしたが。 だって當時とちがってヤルこと、ふえたもん。
…ま、いっか。
しかし臘八でなくても更新いつもサボりがちだという聲きこえてきそうな氣配。 いやーん、ゆるして。
ここはひとつ ま、いっか で寛恕ねがいたい。 どうせ毎回たいしたエントリこいてないじゃん私。

で、とっくに臘八おわってんのに更新とどこおってたです。 なんだそれ。
じっさい臘八あけ成道會の日か翌日つまり昨日くらいには、ふさわしく 普勸坐禪儀 の私訳改訂を(いちおう以前から掲載予定を予告だけは、してたし)ばばーん、と景氣よくタイミングよくエントリぶちかまそう、なんて考えてたんだな。 考えつつ、たまった洗濯や掃除etcしてた。 あちょー。
なにしろ臘八つって坐禪やり込みつって家事ほったらかし、だったから。 つくづく所帯クサイのう。
そのうえ臘八つって坐禪やり込みつって家事ほったらかしでブログ更新すらサボり、それでいて土日おデートばっちり、つかまつってたワ・タ・シ。 いかがです、なかなかイイ感じでしょ、オホホ。 

ていう次第で、こんかい私訳の改訂ようやくにして、予告からも成道會からも時間たってますが掲載なのだ。 だれも待ってないけど、お待たせいたしました。 ちなみタノの私訳むつかしい、わからん、ていう所感ご意見ご感想いただくので、原文および脚註と訳文できるだけ、ていねいにならべてみたです。 それだけなら從前と變わりばえしないので、さらにガチガチの直訳よりか、いますこし意訳を(タノの独善をさけ參禪先の提唱を參考に)くわえました。 あと私訳の、まわりくどかった箇処を改善したつもり。 なんだかんだいって原文そんな難解なこと、かいてないし。

ところで更新休止ご報告エントリに、まさかコメいただくとは思ってなかったし、この更新再開にあたり削除する予定だったんだけどコメ頂戴しまして、どうするか迷ったけど、けっか削除しました。 事前に検討の返コメもうし上げたけども、とくにレスポンスございませんでしたので。 どうか、お氣をわるくなさらないよう願いたい。
あーそれと土日おデートご報告も記事にしとくべきかな。 ま、いっか次回で。 スペースないし。
(以下↓佛祖正傳坐禪ガイド の私訳の、その改訂なり)
(つづき)
原夫、道本圓通、爭假修證、宗乘自在、何費功夫。 况乎全體迥出塵埃兮、孰信拂拭之手段。 大都不離當處兮、豈用修行之脚頭者乎。 然而毫釐有差、天地懸隔、違順纔起、紛然失心。 直饒誇會豐悟兮、獲瞥地之智通、得道明心兮、擧衝天之志氣、雖逍遙於入頭之邊量、幾虧闕於出身之活路。 矧彼祗園之爲生知兮、端坐六年之蹤跡可見、少林之傳心印兮、面壁九歳之聲名尚聞。 古聖既然、今人盍辯。 所以須休尋言逐語之解行、須學囘光返照之退歩。 身心自然脱落、本來面目現前。 慾得恁麼事、急務恁麼事。
(註)
修證…修は實践、證は體験の意
宗乘…佛のえ、乘は救済の意
塵埃…様々な諸感覚、その煩惱
不離當處…證道歌にもある句で而今や前後截斷と同
脚頭…爪先つまり足を向けて進む
毫釐有差、天地懸隔…信心銘にある句
違順…快不快や苦樂の感覚
違順纔起、紛然失心…信心銘に慾得現前、莫存順逆、違順相爭、是爲心病とある
虧闕…棄損、欠損、損失
生知…釋迦牟尼佛など、大悟の卷を參照
解行…理解的修行、机上の學問
退歩…道元上堂に不進不退、還有出身之路也無、また外不放入、内不放出、劈面一揮大事了畢とあって進歩は進化向上、退歩は囘歸また吟味考察、検討を指す
須休尋言逐語之解行、須學囘光返照之退歩…この句のためか正法眼藏すら読まないままに道元禪師の却下した唯識五位や本覺見性をえとしたり本有常住をすら説く禪者が少なくない
身心脱落…身心の相互干渉と束縛から自由な状態
本來面目…条件づけから自由な状態、父母未生前と同
恁麼…右記、上記、左記、下記、そのような、また事象本來や窮極の眞理を指す
(訳)
元をいえば佛の道は本來が欠けることなく行き届いており、なにゆえ實践と體験を用いるのか、佛のえは無条件であり、なにゆえ努力を費やさねばならないのか、すべては煩惱を超えていることはいうまでもなく、誰が拭い払う手段を問うものだろうか、この場に一通りあるものへ修行を願い求めるものだろうか。
とはいえ少しでも違いあれば天と地ほど懸隔ができ、わずかでも私意あれば混乱して迷う。
理解を誇り悟りに豊かでいて智慧と道理の一部を獲得し核心を明らかにして天を衝く意氣を擧げ入門初心の端の程度ぶらぶらするとしても解放して活きる路には幾らも欠けている。
あの祗園精舎の生まれつき智者である人が端坐した六年の蹤跡を見ることができ嵩山少林禪寺で印可を傳えた人が面壁した九年の名聲いまも評判であることは、いうまでもない。
いにしえの聖者が既にこの通りであり今日の人がなぜ修行しないのか、だから理論を追い解釈を求める學は止めるべきで主客を超えた考察を學ぶべきである、肉體と精相互の干渉束縛を脱皮して条件づけからの自由を手にするだろう。 以上の事を會得したいなら急いで次の事に務めなさい。

夫參禪者、靜室宜焉、飮食節矣、放捨諸縁、休息萬事、不思善惡、莫管是非。 停心意識之運轉、止念想觀之測量、莫圖作佛、豈拘坐臥乎。 尋常坐處厚敷坐物、上用蒲團。 或結跏趺坐、或半跏趺坐。 謂結跏趺坐、先以右足安左腿上、左足安右腿上。 半跏趺坐、但以左足壓右腿矣、寛繋衣帯可令齊整。 次右手安左足上、左掌安右掌上、両大拇指面相拄矣。 乃正身端坐、不得左側右傾前躬後仰。 要令耳與肩對、鼻與臍對。 舌掛上顎、唇齒相著、目須常開。 鼻息微通、身相既調、欠氣一息、左右搖振、兀兀坐定、思量箇不思量底。 不思量底如何思量、非思量。 此乃坐禪之要術也。
(註)
圖作佛…江西馬祖が南嶽慧譲に答えた句、景傳燈録の卷五、磨磚の問答
結跏趺坐…両脚を組んだ趺坐
半跏趺坐…片脚だけを組み片脚は敷いた趺坐
欠氣一息…深呼吸一回
不思量底…景傳燈録の卷十四にある藥山惟儼の句
非思量…道元上堂に非思量處絶思量とある
(訳)
禪を學ぶには静かな室内がよく飲食は節度もって諸々の関りを思い切りよく投げうち、すべて休んで善と惡の別を考えず是か非かを限ろうとしてはならない、心の動きを停めて集中したり思い浮かべたり見極めようと詳しく測り求めることを止め、わざわざ作為して悟りを思惑で都合してはならない、常識に拘ることがあるだろうか。
ふつう坐處には厚く坐物を敷き上に蒲團を用いて結跏趺坐か半跏趺坐つまり結跏趺坐は先ず右の足を左の腿の上に安め左の足を右の腿の上に安め、半跏趺坐はただ左の足を右の腿に載せる。 ゆるやかに衣装を着て身綺麗に整えること。 次に右の手を左の足の上へ安め左の掌を右の掌の上へ安め兩側の大拇指は互いに支え合う。 そして姿勢を正して坐って左に偏り右に傾き前に躬まり後に仰ぐことをしないこと。 耳と肩を、鼻と臍を、對に並ばせることが要る。 舌は上の腭に据えて唇も齒も互いに着け眼は當然いつも開くこと。 鼻から息は微かに通じ姿勢を調えたら深く息を一度吸って吐き左右に搖すり振って動かぬよう坐を定め、ひとつ一つ思量しない奥を思量しなさい。
思量しない奥をどうして思量するのか、思量ではない、これつまり坐禪の大切な方法である。

所謂坐禪非習禪也、唯是安樂之法門也、究盡菩提之修證也。 公按現成、羅籠未到。 若得此意、如龍得水、似虎靠山。 當知正法自現前、昏散先撲落。 若從坐起、徐徐動身、安詳而起、不應卒暴。 嘗觀、超凡越聖、坐脱立亡、一任此力矣。 况復、拈指竿鍼鎚之轉機、擧拂拳棒喝之證契、未是思量分別之所能解也、豈爲通修證之所能知也。 可爲聲色之外威儀、那非知見之前軌則者歟。 然則不論上智下愚、莫簡利人鈍者。 專一功夫、正是辨道。 修證自不染汚、趣向更是平常者也。 凡夫、自界他方西天東地等持佛印、一擅宗風。 唯務打坐、被礙兀地。 雖謂萬別千差、祗管參禪辨道。 何抛却自家之坐牀、謾去來他國之塵境。 若錯一歩、當面蹉過。 既得人身之機要、莫虚度光陰。 保任佛道之要機、誰浪樂石火。 加以、形質如草露、運命似電光。 倏忽便空、須臾即失。 冀其參學高流、久習模象、勿怪眞龍。 精進直指端的之道、尊貴絶學無爲之人、合沓佛佛之菩提、嫡嗣祖祖之三昧。 久爲恁麼、須是恁麼。 寶藏自開受用如意。
(註)
習禪…瞑想集中をする禪
公按…設問、轉じて眞理を指す
現成…思量分別や作為を超えて無条件に存在すること
公按現成…眞理は思量分別や作為を超えた無条件に於いて存在すること
羅籠…陥穽の意、主觀や世俗の常識的思慮分別判斷などバイアスを指す
超凡越聖…凡か聖かの分別二見を超えた境地
指竿…迦葉が阿難に竿を指した故事
鍼鎚…迦那提婆の故事、椀に針を入れ水を飲み、鎚を打って説法した
拂拳棒喝…山宣鑑や臨済義玄の指導法
のちに道元禪師は臨済山に批判的になる
證契…會得の合致
通修證…小乘や外道の行と悟、通の卷を參照
聲色…感覚
知見…分別、認識
前軌則…雲門文偃の句に大用現前不存軌則とある
辨道…修行
佛印…誓願
蹉過…誤まる
保任…護り務める、定義する
形質…臭皮袋、赤肉團と同
倏忽…少しの時間
須臾…少しの時間
高流…學人
久習模象、勿怪眞龍…解釈は諸説ある
絶學無爲…學が極まって作為ない無条件の状態
合沓…集合
(訳)
つまり坐禪とは瞑想集中する修行ではなく解放のえというだけであり、煩惱を放れた無上の境地を究め盡くす實践であり體験である。 眞理は思量分別や作為を超えた無条件に於いて存在する、この意味をわかったなら龍が水を得るような虎が山に暮らすような境地である。 存在本來は目の前にあって動揺する心の乱れから自由であることが確かとなるものだ。
坐から起つのなら徐々に身を動かし慎重に起つこと。 いきなり急ではならない。 むかしから迷いを超え悟りも越えて坐ったまま解放され立ったまま亡くなることも、ひとえに坐禪に懸る。 迦葉尊者や迦那提婆尊者の故事、山や臨済の指導もまた、まだ思量分別で巧く理解できるものでないことはいうまでもない。 どうして超常秘などで理解できるものだろうか、感覚認識以外の手法であって何ゆえそれ以前の法則でないものだろうか。
だからつまり上智であるとか下愚であるとか論じない、利人だとか鈍者だとか選んではならない。 坐禪にだけ打ち込めばこそ修行である。 坐禪は無条件であり努力した結果は更に普遍であるものだ。
およそつまり場處を問わず西の空から東の土地まで、そろって誓願を護りえだけを掌中とするには、ただ坐ることに努力し動かず邪魔されない。 千差萬別というものであっても、ひたすら禪を學んで修行すること、なにゆえ自身の坐床を放棄して意味なく彷徨い歩くのか、もし一歩を誤ればそこで路を間違う。
もはや人として生をうける大切な時を得たのだ、無駄に月日を過すことがないように。 えの大切さを受け継いでいて誰が虚しく瞬間を樂しむだろうか。 ばかりか肉體は草露のようであり持ち時間は電光に似ており忽然と實體がなくなって一瞬で消え失せる。 どうか何卒、えを學ぶ立派な人が贋物から長く學んで本物を疑うことないように、明解に示すえに打ち込み、學が極まって作為ない無条件の人を尊び、諸佛が煩惱を放れた無上の境地に集結し、諸祖が煩惱を手放して自在に安定した境地を受け嗣ぐように願う。 以上のことを長らく行えば次の通りになること必然である。
寶の藏が自然に開いて我物となること思うままとなるだろう。

(了)
以上きょうのエントリこんなとこ。
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    まあ…あれですな
    皮膚呼吸って奴?
    ハハハ( ̄▽ ̄)v

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