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[C2791] いっとうりょうだん

文字にするとですね、ひやっとしたら振り上げて斬られると思ったら振り下ろすかな?
実際に使うと難しいですけど・・・・
  • 2010-09-19 23:11
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[C2792] 言無展事語不投機

サッ と來たら ズバーン と
…って、ナガシマ監督じゃないんだから( ̄▽ ̄;
  • 2010-09-20 22:03
  • タノQ
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[C2793] ????

すみません。一生懸命読み返してみたけど、私には難しすぎる内容でした。
最後の「感覚遮断」のあたりでようやく、「あ、知ってることが出てきた」という感じです。
  • 2010-09-21 18:40
  • Y・Y
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[C2794] 喚作竹木

あんまり字義や定義づけに拘束されないでください。
感覚遮断:お氣づきの箇処はですね、坐禪とは身⇔心の相互干渉を休ませてみる、つまり
 躯が心に命じることを
 心が躯に命じることを
両方とも一時的に解消することで齟齬や不安定を除いた自由な状態を構築してみる、これ古くは
 身心脱落
と呼ばれ、私は仮に
 簡易アイソレーション・タンク
と呼ぶですが、やはり入出力うち切れば感覚遮斷による感覚異常おこすことがあり、その感覚異常を悟りの秘的境地だと勘違いしちゃう連中の境地を指して 魔境 とか 野狐禪 とか呼ぶとおり、ようするに佛道はオカルト秘を却下するし、そもそも我ものと思ってる認識なんて適當いい加減だと指摘するえなんですよ、ていう意味であります。
この感覚遮斷による認識障害、感覚異常に屈服しなかった人物の事例として中村希明博士が釋迦を挙げてます。
  • 2010-09-21 20:15
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お前はもう直至如今飽不飢

ずい分すずしくなった感じです …って、いまごろ神奈川大和にいるはずが私なにゆえブログのうのうと自宅で更新こいてやがるかといいますなら、けっきょく宿とれなくて稽古いけなかったんだな。
いつも當日に宿とれてましたが、おそるべし三連休、あなどるべからず三連休( ̄▽ ̄;
たのしみにしてたのに、いささか以上タノちゃんショックです。 泣けるわー、ガッカリじゃん。
これつまり他ならぬ自分がわるいんだけど、自分がわるいだけに悔やんでも悔やみきれません。
悔やんでも悔やみキレかねるだけに、どう悔やんでいいやら途方もなく途方に暮れなずみます。
なんだそれ。

途方に暮れる、ていえば
自身の失策とはいいながら急に予定あいたのでカノジョよべるかというと、そうは問屋が卸し金。
こんやのカノジョとっくに別の予定いれてるし、やっこさん(死語だな)いったんキメた予定はテコでも動かさない、いくらいっても耳かさない、その融通の利かなさと來たら、まるであたかも役場の窓グチを連想させ、その血も涙もない態度と來たら、すなわち時代劇の女衒とか代官を彷彿とさせる代もんです。 かわいそーなタノちゃん苦しめるとバチあたるぞな、ペイッ( ̄з ̄)_,
ていう感じで独りぼっち予定ちゅうぶらりんモードの途方に暮れなずんでます。 やれやれ、どうせ、なんだかんだいってカノジョ翌あさの参禪を同伴したくなくサボりたいんじゃないの、きっと。
やーねー、もう。 得がたく会いがたき参禪問法の機会が、もったいないじゃん。 じーほーさんしー。

得がたく会いがたき(中略)じーほーさんしー、ていえば
ウチのブログがタイトルに佛説もちいたり記事中へ禪語つかったりしてるせいか、それワード検索して來訪する人ら、けっこう、います。 また何年か以前からmixiでも佛道についてタノへ問いかけめいたメッセいただくこと、なん度か、ありました。 これ武道に関しても同様です。
それに對して私は、あんまりキッパリくっきりした返答だしてきては、いない。
なぜかといいますと、まず第イチにタノは佛家として出家でもなく嗣法されてないイチ在家であること、武道家としても授免許もつどころか客分のイチ稽古生だということ、この点を重くみて發言ひかえてまして。 私の發言で佛祖あるいは劔法すべて理解したつもり、になってもらっちゃ困るから。
また個人ブログとかネットのコミュで自身の境地を語ってる人らみて笑也笑殺、用作什麼つまりアホちゃうか、そう常づね感じてるし、なのでクチバシでプロペラ廻すような真似こいてません。
これ別だん武道佛道というものが秘密主義なのではなく、
(うひー、もうスペースが↓めずらしくマジなトークつづき)
(つづき)
そうではなくって誤解をおそれるゆえ、です。 とくにネットみてると誤解したまんまな人、どこで聞いてきたのか知れやしないネタを、しかも自分の手で得たみたくネタこいて得意ヅラな人、たいへんに多くて困ります。 武道にしろ佛道にせよ 手から手へ うけ継いでくもんでありまして、ただクチバシでプロペラ廻しつつ得意ヅラかますための道具では決して、ありません。
とんでもナイこった ε=( ̄へ ̄)

しかし、とはいえど私タノがクチつぐんだまんま小だしにするといえば誤解と私曲おそれてガチガチに直訳した私訳の正法眼藏ご紹介するか短文の禪語ぼそッというかコメ欄でプチ解説してみるか低度にしつつ、あと知らん顔しとく、ていうのも詮ない話しに思えます。 せめてウチを閲覧する機会もった人らには、ごく簡単にでも佛道の説明もうし上げたところで分を踏みこえた提唱の真似ゴトなどには、あたらないんじゃないか、いいんじゃないですか別に、と考えた次第なり。
…ていうことで以下こんかい佛道すこし武道まぜて紹介トークしてみまショーです。 といっても私が独りで得たものなんか何ひとつなく人や書から授かったもの、ただし人が与えて与えられないもの、けれど自分の中から勝手に生えてくるもんでもないもの、そういう代もんとして考えていただきたい。

佛道は自然科學に似た面をもちます。
知識と思考方法を与える点が似てるだけではなく懐疑して視点をかえてみようという姿勢、視点かえたら確認してみようという方針、氣にくわなくても事實なら受けいれようという立場、批判と検證と反省くり返すこと、これらが非常に似てる。 ちがう点といえば自然科學はその思考方法よりも知識の品質と蓄積に比重を傾けるところ、佛道は知識よりか思考方法に傾倒する面を、もってます。 またさらに大きな相違点は佛道が検證可能性について検證可能性を無視や放棄しないまでも、むしろ重要視しながらも音聲や文字など記号による検證可能性については限界を示唆する点であります。
 (たとえ話し↓その一)
新陰流兵法には三學という勢法(形)が、あるです。 一本目を一刀両段と呼びますが、これ遣えば開始から終了まで4~5秒なのだ。 ゆっくり遣う 取上げ ですら10秒以内かな。 あっ、ていう間。
でも、これを文字に記せば、ごく簡単に述べてみてもウチのブログならエントリ一日分かつ折り返し頁なし、くらいな分量には、なるです。 たしょう詳細に解説すれば文庫本の十数頁に、わたるでしょう。 そして一刀両段のあいだ中おきてること、つまり現實すべてを文字に変換しつくそうとしたら、おそらく短編小説くらいの分量には、なります。 じっさいの時空をあらわすのに記号では、わずか4~5秒のことでさえ、そのくらい要する。 けども現實の勢法は4~5秒であり私どもの脳内で入出力してみても、そんな大してボリューム必要としない。 遣うのは大変ですが。
上記では文字による事象の記録について説明しました。 これは音聲によっても同様でしょう。 では三學一刀両段を解析も記録も、できないのかといえば、そんなことはないです。 私らの身心でもって解析も記録も、いたします。 そういうのを佛道と、よぶんだな。
ただし私らの認識が、けっこう適當いい加減で左右されやすいことも佛祖は指摘してます。
 直觀が佛道なのではありません。 直觀が佛道だなんて邪見を説く本あるけど。
 (たとえ話し↓その二)
では自然科學だと三學一刀両段を解析も記録も、できないのかといえば、そんなこともないです。 ただし、いま武道研究とかいって科學と称してやってる手法では、とうてい無理かも。 測定機で衝撃や速度の数値を計ってみたり、あんなもんはバラバラにした事象から全體像を決定づけようとして現實から懸けはなれちゃってます。 とうぜん測定するたんび被験者かえるたんび数値かわるでしょうし、その平均値とってみたとしても事象に近づくことは、ないと思う。
つまりデータの収集からして方法が、おかしい。
あるいは坐禪を解析つって坐禪中の被験者から脳波や脈拍とか呼吸数とか、とってる記事も、ある。
あれが科學というのなら、たいへんアプローチ怪しく感じる。 せいぜい疑似科學なんじゃないの。
 (たとえ話し↓その三)
たとえば仮の話し、三學一刀両段または坐禪を解析して記録できたとして、そのデータみた人がみたまんま間違いなく理解して試行してみたとすれば、ほとんど等しく同様に再現することが可能なのかといえば、これはもう到底ムリだということは論を待たないでしょう。
自然科學であれば實験ていうものは間違いのない方法を心得て間違いなく行えば誰であっても近似の結果を得られる、そうでなければ實験の失敗あるいは基礎となる仮説の失敗であります。 これを作業の難易度の違いだなどと単純化することなく考えていただきたい。 いったん難易度ぬきに考察してみていただきたい。 厳密にいえば科學の實験もデータの収集も、やるたんび微妙に變化をするはずだし、それが事象というものです。 1+1=2 ていうのは机の上でしか存在しない事象です。
数値に出てこず記号で記せない箇処は存在してない箇処なのかというと、ちがうのです。
ちなみに坐禪はデータにたよらずとも誰でも(ただし指導うけて)イチから同様に坐れるものでして、なにやら久修練行しなければ(データを集積してなければ)ホンモノのようには坐れないのだ、みたく説いてる禪マニアいたら、それはホンモノではない似非宗です。

佛道では因縁を説きます。 といっても、あらかじめ決められて動かない運命だの宿命だの、生まれつきだの、そういうことでは、ない。 事象(結果、存在)には因(原因、みなもと)があり因なく事象だけが独自に存在することはない、しかし同じ因であれば同じ果(事象)を必ずもたらすかといえば、そうではなく縁(条件)が常に作用している、そうして事象は互いに接続して関係しながら休みなく運行をしており結果と視えても結果ではなく變化の一時的な過程である、だから永遠不變の絶對的な事象は存在せず(その理屈は永遠不變なのかというコトバ遊びは置いといて)したがって萬物を創造する絶對の存在だとか法則を超越した超常の秘だとかを認めません。
存在の實體と視えるものは仮の姿であって隠された眞實の本質が世界を超えて存在するのだ、とかいう類を却下するえなんだな。 これを空といい諸法無我といいます。
なので佛道の、あくまで喩え話しのために登場するなる存在も生滅變化する事象にすぎず、この肉體から独立して存在する不滅の靈魂などというものも異ならともかく佛道には在り得ず、そして釋迦は弟子に占術を禁じてました。
以上とても簡単に説明しましたけど、これが佛道です。

ところで佛道の一部が説いた唯識は森羅萬象のミナモトとして 阿頼耶識 なるものを設定してる。 これ、まったく諸法無我に反してるばかりか完全に想像上の産物だし釋迦はこんなデッチアゲを説いてません。 心の外に存在はない、ていうのが空だなんて、しかも阿頼耶識が世界を生むだなんて、もはや常見である上に斷見であり道元禪師も否定してるのだ。 まるきり説明のための説明じゃん。
曹洞門なのに唯識もてあそぶ連中は正法眼藏よんだこと、ないらしい。
むしろ心の外なるものを認識することによって逆に私らが存在するんじゃないの。 いちいち心だ躯だという人ら、いっぺんアイソレーション・タンクにでも長期間はいって心だけで存在が存在できるのかどうか實験してみりゃいいじゃん、どうなっても知らんけど。 簡易アイソレーション・タンクともいえる坐禪やってても感覚遮斷で認識障害おきること、あるんだぞ。

以上きょうのエントリこんなとこ。
もう、こういう話しより次回また本ご紹介したいです。 紹介してないのが一杯あるもん。
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  • 2010-09-19 23:11
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サッ と來たら ズバーン と
…って、ナガシマ監督じゃないんだから( ̄▽ ̄;
  • 2010-09-20 22:03
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[C2793] ????

すみません。一生懸命読み返してみたけど、私には難しすぎる内容でした。
最後の「感覚遮断」のあたりでようやく、「あ、知ってることが出てきた」という感じです。
  • 2010-09-21 18:40
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あんまり字義や定義づけに拘束されないでください。
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 躯が心に命じることを
 心が躯に命じることを
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この感覚遮斷による認識障害、感覚異常に屈服しなかった人物の事例として中村希明博士が釋迦を挙げてます。
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    まあ…あれですな
    皮膚呼吸って奴?
    ハハハ( ̄▽ ̄)v

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