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[C2533]

正直なところ、現代口語訳になっていても途中に出てくる読めない漢字なども含めて内容が難しく、うまく理解できてないかもしれないのですが、百丈懐海が主観的に何か見た可能性は高いんですよね。問題はそれが客観的にどうだったのか、というところで。
いくつか矛盾をついているようですし「野狐は百丈の心眼に映ったのである」というのは、まさにそんなところかと思います。
  • 2009-11-19 14:56
  • 本城
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[C2534] コメントありがとうです☆

旧字になってるのは自宅で禪書の作業してるうちIMEが記憶して優先してるのと、あえてワード検索の來訪閲覧を阻害する目的なんです、すいません。 武道や佛道をワード検索ちょろ視して學習しようという人らの心意氣が私には理解できてないので。
禪書よみなれてないと論法むつかしく感じるかも知れませんが、ご理解いただいてる通りだと思うです。
客観的にどうだったのか、そこを斷定しないとこが道元さんらしい箇処でして、この禪師は、よくわからないことはよくわからない、そのように説く、ただ想定はしてみる、いわばカオス論者なんですよ。
私の推測では百丈懐海、いつも佛道について頭いっぱい、そんなとき白昼夢みたのか、あるいは寝てるとき夢みたのか、いずれにせよ内的世界に野狐が訪れたものを講話で弟子に説いたんだと想像します。
  • 2009-11-19 19:36
  • タノQ
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お前はもう心霊ハンター

こないだデートしたときカノジョに紹介した心霊現象の解明ネタが好評だったので、こんかい記事としてエントリしてみます。 その出典は、ちょっと意外かも知れんけれど、じつは佛道の本なのだ。
いつも私が一所懸命よんでる佛道の本ていえば禪書それも道元禪師の、ものばかり。
とくに正法眼藏とくれば二回通読してまして現在ただいま三回めは私訳の作業こいてます。
以前にも當ブログで禮拝得髄神通の巻を現代口語へ私訳したものをエントリつかまつったけども、きょうのそれは、じゃーん 大修行 です。
上記リンク先を各ご参照いただく通り道元禪師は(800年くらい前の人でありながら)たいへん懐疑的な思索の持ち主であり、かつ非常にシビアでハードコアなトークする、そういう人物。
えー、とりあえずグダグタいってないで、まず巻頭にある心霊現象から↓

洪州百丈山の大智禪師は馬祖を嗣いで懐海と称した。 その講話のとき一人の老人がいて常に衆僧と共に教えを聴き衆僧が退席すれば老人も退席した。 ある日は退席せず、そこで師は問うた、
目の前に立つのは誰なのか。
老人が応えていう、
拙は人ではない、前世において迦葉佛の時この山に住んでいた、あるとき學人が問うた、大修行した人も因果に落ちるのかと、拙は彼に答えていった、因果に落ちず、以降の五百の生を野狐の身に堕とした、いま代わりに和尚が一語を説くのを請う、野狐の身を免れたい。
そして問うた、大修行した人も因果に落ちるのか。
師は答えて、因果に疎くない。
老人は言下に大悟し禮を採っていった、
もう拙の身は野狐を免れて山の背にある、あえて和尚に申す、亡僧の事例に依ってほしい。
師は維那に命じ版を打たせ衆僧に告げていった、
食後に亡僧を弔う。
衆僧は論議した、我々みな無事で療養所にも病人なく、なぜなのだろう。
食後に師が衆僧を率いて山の背の巌下に至り杖で指すと一體の死んだ野狐が見えて作法どおりに火葬した。
晩になり師は上堂して先の次第を示した。 そこで黄檗が問うた、
古人は誤答の一語を説いて五百の生を野狐の身に堕とした、誤らずに説いた場合どうなのか。
師は答えて、近くに來なさい、君に告げよう。
そこで檗は近づいて師に平手を与えた。 師は手を拍ち笑っていった、
胡人の鬚は赤いと思えば赤い鬚の胡人もある。
(心霊ハンター↓つづき)
(つづき)
以上までは從容録第八則や天聖廣燈録巻八にある 百丈野狐 と呼ばれる公案です。
このエピソードを道元禪師が弟子たちに示したのは1244年3月9日、このあと禪師の考察つづいてるんですが手始めに、おなじ空間(百丈山という場処)であっても時間(迦葉佛の時代と釋迦の教化した時代)の経時変化という差異を述べて決して、おなじ時空間というわけではない、そう解説したうえ、

あらかじめ野狐を免れた姿で野狐に堕ちている老人が百丈に現れ、のち野狐を免れて百丈に死骸を残した、そして野狐の頭脳で一生涯を認識した上さらに野狐の頭脳で五百生を記憶する、肉體と共に滅している過去の記憶が新たな肉體に保存される

という、これらの矛盾などを衝いてます。
ついでに(と、いっちゃナンだけど)本覚思想や唯識の阿頼耶識を却下してる。
それから、いきなり論点かわって作法の逸脱などについて苦言を呈したあと、とつぜん本論もどって心霊の解明を再開しましてラスト、ようやく結論だしてるんだな。 (結論は後述)

…この展開は正法眼藏において少数ともいっていい手法でして、つまり通常なら、まず結論を巻頭に持ってくる、あるいは巻頭でエピソード紹介したあと次は即座に結論を示す、そうしておいてから以降は補足の小ネタ紹介つづけてく、そんな示衆が圧倒多数なんです。 なかなか、おもしろい。
ところで、まったく同じ公案を説いた巻が別にあって、それは 深信因果 ていう巻ですが、なぜだかコチラは心霊現象の考察すっ飛ばして結論やたらに急いだ内容でして、その中身は本覚や唯識の却下など道元テイスト継承してるものの二見(禪が嫌う是非や彼我の二元論)に走っちゃった雰囲氣です。 しかも問題なのは、この深信因果が示衆も制作も日時不明な巻の一つであり同時期に書写だと奥付にある別巻などは内容に
 前世で功徳つむと金持ちの家に生まれる
 前世で功徳つんでないと餓える境遇に生まれる
 前世で功徳つんでないと生まれてから病氣になる
 前世で功徳つんでないと障害もって生まれる
 女性器は醜惡で不潔である
などなど、とても道元禪師の言葉とは思えない言辞が満載なのだ。 道元禪師が崇敬してやまない六祖曹谿山慧能は貧困層の生まれだし禪師ご自身が病氣で亡くなってますし女性差別を否定してます、念のため。 私個人的には示衆や制作の日時不明な巻の中には偽典ふくまれてるんじゃないのか、そう考えてるわけ。 その点きょう私訳エントリしてる大修行の巻は、だいじょぶです。

その巻末で道元禪師の示す結論ですが 野狐を懐海の前世か何か知らんが、とにかく視た者が自身の中から生んだ姿だと鑑ており結論としては是非や彼我の二見を両段している ていう次第。
ようするに老人と話した百丈懐海は白昼夢でも視てたんでしょうか、そんなとこ。
あー、ずいぶんグダグタと長文こいたけど以下↓現代口語訳つづく。

 時空間の相違
ここに存在する真理こそ大修行なのだ。 老人の言葉の通りでは前世の迦葉佛の時に洪州百丈山があって釋迦牟尼佛の教化した世に洪州百丈山がある。 これは存在する説法の一語なのだ。 とはいえ前世の迦葉佛の時の百丈山と釋迦牟尼佛が教化した世の百丈山と同じではなく別ではない。 以前の数々ではなく以後の数々ではない。 過去の百丈山そのまま今の百丈山となっているのではなく今の百丈山が先行して迦葉佛の時の百丈山ではないけれど、この山に住んでいた、との真理がある。 學人の為にいおう、つまり百丈が老人の為にいった言葉の通りである。 そこで學人が問うは老人が問うた通りである。 一を示して二を示し得ず一点の放擲は第二を失却するのだ。
前世の百丈山で過去の學人が問うた、大修行した人も因果に落ちるのか。 この問を迂闊に手軽く理解しては決してならない。 なぜなら後漢の永平年紀の頃に佛法が傳來して以降、梁時代の普通年紀の頃に祖師が渡來して以降、初めて老野狐の言葉から前世の學人の問を聴くのだ。 これより以前には例がなかったことである。 したがって聴くこと稀というものだ。 大修行を模索すると、つまり大因果である。 因果とは必ず因の欠けることなく果の不足することないため落ちる落ちないの議論あったことがなく疎い疎くないの言辞あったことがない。 因果に落ちず、が仮に誤りならば因果に疎くない、も誤りであるはずだ。 矛盾した二見を超越するとはいえ野狐の身に堕ちることあり野狐の身を脱することがある。 因果に落ちず、が仮に迦葉佛の時代では誤りであっても釋迦佛の時代には誤りではない筋道もある。 因果に疎くない、は仮に釋迦佛が教化した時代に野狐の身を脱しても迦葉佛の時代そうではない筋道も存在するものだろう。
(註)
迦葉佛…過去七佛の六、釋迦以前に在世した
將錯就錯…矛盾を克服する、二見を超越する

 懐疑
老人いわく以降五百生を野狐身に堕すとは、いかなることだろうか。 以前から野狐あって以前の百丈を招き堕とさせるのではない。 そもそも以前の百丈が野狐であるはずはない。 以前の百丈の霊魂が出て野狐の肉體に突入するといえば異教である。 以前の百丈を野狐が來て吸収するものではない。 仮に以前の百丈が野狐になるというなら百丈の身を脱してから野狐の身に堕ちるはずであり百丈山を野狐身に換えるということではない。
どうして因果が、そんなものであろうか。 因果は継続中なのでなく開始するのではない。 因果が何もせず人を待つことはない。 仮に、因果に落ちない、との返答が誤っていても必ず野狐身に堕ちるものではない。 學人の質問へ誤答する行為を原因として野狐の身に堕ちることが必然であるならば近來いる臨済、徳山その門人たちは幾千萬回と野狐に堕ちるだろうか。 他にも二、三百年來の出鱈目な長老たちは、いくつの野狐となるだろうか。 けれども野狐に堕ちたとは聞かない。 多ければ見聞にも余りあるはずだ。 誤りない答もあるだろうとすべきとはいえ因果に落ちず、よりも雑に過ぎる答弁だけが多い。 佛法の範疇に置けないのも多いのである。 参禪學道の眼があって知るもので眼を具えていない者には区別できない。
したがって解るのは、拙く返答することから野狐身になり巧く返答することで野狐身にならないというものではない。 この出来事の中で野狐の身を免れて以降はどうなのかいわない。 必ず肉體に包んでいる寶があることだろう。
それなのに佛法を見聞したことのない輩みながいう、野狐を免れ終えたなら、あるがまま本來不変の本質に帰るのだ、迷妄によって一時は野狐へ生まれ堕ちるとはいえ大悟すれば野狐の身は本質に帰っているのだと。 これは異教がいう本來不変に帰るとの教えであり少しも佛法ではない。 もし野狐が本質ではなく野狐に本來はないといえば佛法ではない。 大悟すれば野狐の身は放れた、捨てたといえば野狐の大悟ではなく抜け殻の野狐である。 そんなことをいうものではないのだ。
いま百丈が説く一語によって以前の百丈で五百生した野狐が野狐をすぐ免れるという。 この筋道を明らかにすること。 もし傍が一語を説けば傍で野狐の身を免れるというなら、これまでに山河大地が幾らでも一語を説いて説法の一語は多く盛んであるはずだ。 けれども、これまでは野狐の身を免れないでいて、いまの百丈が説く一語で野狐の身を免れる。 これは古人先徳の否定である。 山河大地が一語を説いたことはないというのなら結局いまの百丈が口を開く余地ないだろう。
また大抵の古徳は多くが落ちず、と疎くない、の發言を均しく可であるというのを競って言葉にしている。 しかしながら落ちず、と疎くない、の言説を體得していない。 なので野狐身に堕ちることの奥義真髄を極めず野狐身を免れることの奥義真髄を極めない。 始点がなければ終点はない。
老人いわく以降五百生を野狐身に堕すとは何によって堕ち何が堕ちるのか。 まさに野狐の身へ堕ちるとき、これまでの世界はどんな状態でいるだろうか。 因果に落ちないとの言説でなぜ五百回なのか。 山の背の巌下にある一つの死骸を何處から得るとするのか。 因果に落ちずの發言は野狐身に堕ちるのであり因果に疎くないの聞知は野狐身を免れるのである。 堕ちる免れるありといいながら、やはり野狐の因果なのだ。
だのに昔からいう、因果に落ちず、は因果否定まがいな發言であるから堕ちるのだと。 この言説には意味がなく疎い人のいうものである。 仮に以前の百丈と関連があって因果に落ちずと發言しても大修行は隠れなきものであり因果否定ではないはずだ。 あるいは、因果に疎くないというのは大修行が因果の超越であるから野狐の身を免れる、という。 これじつに八、九割を學んだ眼である。 とはいえ迦葉佛の時この山に住んでいた、釋迦佛の世この山に住んでいる。 過去と現世の身は面の表裏であり野狐の命が隠れたり現れるのだ。
どのようにして野狐が五百生の生を知るだろう。 野狐の精神を用いて五百生を知るというなら野狐の精神が一生分を知り尽くしたことはなく一生が野狐の肉體に突入したことはない。 五百の生に堕ちることを野狐が必ず理解する真理が存在するのだ。 一生の生を知り尽くさずに知ることがあり知らないことがある。 身體と精神の両方が生滅しないならば五百生を数えることにならない。 数えることが出来ないなら五百生との言辞は虚言である。 野狐の精神ではない精神を用いて知るというのなら野狐が知るのとは違う。 誰が野狐のために代わって知るのだろう。 知る知らないの手段が一つもなければ野狐の身に堕ちるとはいえない。 野狐の身に堕ちなければ野狐の身を免れることもないはずだ。 堕ちる免れる両方なければ以前の百丈もないはずだ。 以前の百丈がないならば今の百丈があるはずはない。 いい加減に認めてはならず、この通り詳細にするものである。 この意味を吟味して梁~宋の代に時々聞かれる誤説すべて看破することだ。
(註)
本覚の性海…唯識の阿頼耶識に該當する

 作法の逸脱について
また人でない老人が今の百丈に告げていった、亡僧の事例に依ってほしいと。 この言辞は適切ではない。 百丈から以降、多くの知識人がこの言葉を疑問とせず意外としない。 その意向は、どうして死んだ野狐が亡僧になるのかと。 受誡なく安居なく作法なく僧籍がない。 このような生物を無暗に亡僧の事例に依って弔うなら出家していない者の何人が死のうと、すべて亡僧の例に準じなければならないだろう。 もし請われることがあれば死んだ在家の男女を死んだ野狐の通り亡僧の事例に依って準じなくてはならない。 前例を捜してもないし聞かないし佛道にその事例を正傳しない。 行おうと思っても不可能である。
そこで百丈が作法どおり火葬したといい、これは明らかではなく恐らく誤りである。 知ること、亡僧の事例は療養所に入って闘病から臨終して墓所に到るまで、すべて事例があって無節操ではない。 巌下の死んだ野狐が仮に以前の百丈を自称したところで、どうして大僧の生涯があるだろう、佛祖の真髄あるだろう。 以前の百丈だと誰が保證する。 意味なく野狐の魂の怪奇現象を真實だとして佛祖の作法を軽視してはならない。
佛祖の継承者としては佛祖の作法を重んじるものだ。 百丈のように請うに任せることがないように。 ひとつ一つ大切である。 世俗に従い人情にほだされてはならない。 この日本國などは佛祖の規に出会うのも聞くのも難しかったのだ。 今ここで稀に聞くこと見ることがあれば冠珠よりも深く重く崇拝尊重することである。 佛果のない輩は尊重崇拝する信心が篤くない。 憐れなものだ、つまり事の軽重を知ったことがないのだから。 五百歳の英知はなく一千年の英知ないのだから。
とはいえど自己を励ますこと、他者を促すこと。 禮拝一つであっても端坐一つであっても佛祖から正傳することあれば大いに快い慶びとすること、大いなる佛の惠みを歓喜すること。 この心を持たない輩は佛の出現に千度めぐり会おうとも功徳の一つあるものではなく惠み一つあるものではなく無意味に佛法へ付く異教であるはずだ。 口で佛法を學ぶ様子であっても口で佛法を説くと實證あるものではない。
したがってつまり仮に國王大臣であれ梵天釋天であれ僧となっていない輩が來て亡僧の事例を請うても全く聴き容れることないように。 出家受誡し大僧となって來るようにと答えること。 処世の価値に執著して三寶の尊位を願い求めない輩が千回の死骸となって亡僧の事例を穢し損おうとも完全に滑稽の度が過ぎるのであり功徳となるものではない。 もし佛法の功徳と良き縁を結ぼうと思うなら直ちに佛法によって出家受誡し大僧となること。

 解明
いま百丈が、晩になり上堂して先の次第を示した。 この示す筋道が最も不審であり何をどう示したのだろう。 老人が五百生を生きて來た最期これまでの身を免れたというようだ。 ここでいう五百生の数を人界の通りに計算するものか野狐世界の通りに計算するものか佛道の通り計算するのか。 ましてや老野狐の眼力が、どうして百丈を洞察することあるのかいうまでもない。 野狐に洞察されるのは野狐であるはずで、百丈に洞察されるのは佛祖なのだ。
なので枯木禪師法成和尚は頌していう、
百丈は野狐を分ち難く視て彼に請われ大いに心乱れた、あえて今ここで参學の諸氏に問う、狐は涎を吐き尽せたのかを。
したがって野狐は百丈の心眼に映ったのである。 狐が涎を吐き得たのが仮に半分であろうとも代わって一語を説く佛の説法なのだ。 まさにその時、野狐は身を免れ百丈の身を免れ人でない老人が身を免れ全世界から身を免れるのである。
そこで黄檗が問うた、
古人は誤答の一語を説いて五百の生を野狐の身に堕とした、誤らずに説いた場合どうなのか。
いまこの問いこそに佛祖の言葉が存在する。 南嶽門下の長老の中に黄檗のような者は過去になく将來もない。 けれど老人もいっていない、學人に誤答したと。 百丈もいわなかった、誤答したのだと。 何を根拠に、この黄檗は意味なくいうのか、古人が誤答の一語を説いたと。 もし誤ちに依ったというのならば黄檗は百丈の意図を得たのではない。 佛祖の言葉が誤答か正解かを黄檗は、まだ窮めていないようだ。 この一連の次第につき以前の百丈も誤答といわず今の百丈も誤答とはいわないと學ぶことである。
とはいえ野狐は五百回もの肉體を以って山に住み學人のために發言するのだ。 野狐に解放の毛筋があるから今の百丈に一つの肉體がある。 忖度すると半ば野狐の肉體を免れたものだ。 誤らずに説いて堕ちる免れるがあり代わりに説く因果がある。 明白な大修行である。
ここに黄檗が來て、誤らずに説いた場合どうなのか、と質問すれば答えること、堕ちて野狐身になると。 もし黄檗が何故そうなのかと訊けば、さらに答えること、ここにいる君が野狐の命だと。 この通りなのだが誤答か正解かではない。 黄檗の問いを良い問いと認めることがないように。 また黄檗が、どうなのか、と質問すれば、捜して顔があったのか、と答えること。 あるいは、君は野狐の身を免れたのか、と答えること。 もしくは、君は學人へ因果に落ちずと答えたのか、と答えること。
しかしながら百丈の、近くに來なさい、君に告げよう、の發言には、こういうことだ、との言葉がある。黄檗は近づいて前後を忘失し百丈に平手を与えた、幾分かは野狐の化身である。
百丈は手を拍ち笑っていった、
胡人の鬚は赤いと思えば赤い鬚の胡人もある。
この發言は、まだ十分な意思ではなく僅かに八、九割の出来である。 仮に八、九割を認めるとしても八、九割に満たず十分と認めるには八、九割に足りないものである。 けれども、こういえる。
百丈の言葉は通じぬけていたものの野狐の巣穴を出てはおらず黄檗の足は地に着いていたといえども蟷螂の小路に滞まっている、平手と拍手と一つであって二つではなく赤い鬚の胡人であり胡人の鬚が赤いのだ。
(註)
親曾見…(見佛の巻)密接に会見、または心眼で体感

…以上、私訳から大修行全文の引用おわり。
百丈懐海が視たものは白昼夢だったんでしょうか、それとも前世の姿だったんでしょうか。
とりあえず山にいけば野狐だのナンだの野生生物の死骸あったって別だん不思議じゃないし。
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いくつか矛盾をついているようですし「野狐は百丈の心眼に映ったのである」というのは、まさにそんなところかと思います。
  • 2009-11-19 14:56
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私の推測では百丈懐海、いつも佛道について頭いっぱい、そんなとき白昼夢みたのか、あるいは寝てるとき夢みたのか、いずれにせよ内的世界に野狐が訪れたものを講話で弟子に説いたんだと想像します。
  • 2009-11-19 19:36
  • タノQ
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    まあ…あれですな
    皮膚呼吸って奴?
    ハハハ( ̄▽ ̄)v

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