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お前はもう値打こいている

風邪おもくなって一日中この眼玉あけたまんま氣絶してたみたい。
氣絶でなきゃあ、ただ皮膚呼吸してた、とか。 ま、そんなことは、どっちでもいい。

どっちでもいい、といえば
mixi のアリ中コミュで惱みごとへ助言したら返ってくる(ただの傍観者から)のが、いわく
 いいッ放しなんだから、かまうな
 助言とは、それ上からいってる
なんだってさ。 いいッ放し、って一体なんだそれ。 おかげで無責任な發言いっぱい、じゃん。
上からいってる、って一体なんだそれ。 卑下して卑屈モードでみるから上に視えてるんでしょ。
上からとか下からとかイチイチそんな、こまかい芸が、この私にあるか。
いいッ放しの放言したいもんだからヤジとばして封じようとし、耳が痛いので上からと呼び排他する、つまり自身の答えが、そこへ出てるだけじゃん。 いってる人ら、断酒できてるのかね。
…おっと、これが 上から って代もんかな。 お門ちがい、笑わせらあ。
いつだって求める答えは自分自身が、もってるんですよ。 それを他者へ反映して騒ぐんでしょ。
私も騒ぎに巻きこまれちゃって反応して、おもい切り自業自得モードだった。 やれやれ。
自己憐憫や自己満足な人らには、かかわらないほうが、いいらしい。 尊重してあげなきゃ。
しかし、いいッ放しなんだったら便所の落書と同じだろうに。 あ、だから反応しちゃダメなのか。
でも便所の落書って反応するもんでもないですが尊重する対象でも、ない。

自己満足といえば
禪を自己満足の世界だと考えてる人ら、いるらしいです。 これも尊重して放置しといたほうが、いいのかな。 尊重しようにも自己制御と自己満足とは、いささかならず懸隔があると思うんだけど。
いろいろクチバシさかんにプロペラ廻して自己世界を語りつくそうとしてる人いますが、そこへ祖録や聖典から引用しつつ指摘やツッコミいれると
 祖録や聖典は説明書にすぎない
なんだってさ。 そういう相手さん、じっさいクチバシさかんにプロペラ廻して 説明 してるじゃん。
その自己世界を説明書と対照せず禪やってたら、どんどん蹉過して魔境になっちゃうんじゃないの。
(その、かたくなな世界に答え出てるんですよ↓つづき)
(つづき)
かたくなに自己世界を守ろうとする姿勢、ここに魔境という結果が答えとして、すでに出てるわけ。
けっきょく祖録や聖典よまず勝手にやってると、こうなっちゃいます。 ひとつ氣をつけたいもの。
ちゃーんと載ってるもんね↓説明書いわく佛祖正傳とは以下
 自己を運びて萬法を修證するを迷とす
 自己を習ふと云うは自己を忘るる也
よんでないから自己世界で完結して見聞覚知チックな見性成佛モードに堕ちるんだな、これが。
まじめに寺院へ参禪してれば僧伽を通じて知るべきこと、よむべきもの、これ得られるのに。

佛道じゃなく自己世界を護持する人らは、いう 先師のコトバではなく自己のコトバで語ろう と。
語ると値打でるんだって。 では、ひとつ自己のコトバつかって私も佛道トークしてみまショー。
以下です、やれやれ。

あらたに何かを發見する、發見すると自己の世界が変化する、でもそれは世界が自己の心に映っているだけ、なのではない。 發見されたもの、それは發見されるまで、そこに存在してなかったわけでは決してない。 發見されるのを待っていたわけでも、ない。 發見で世界が変化するというのは世界と自己との関わりかたが変化する、ということ。
心と身体は一つであり身体を用いて心は世界にふれ心を用いて身体は世界とつながる。 その身心もまた世界を構成している要素から成立しており一切すべての存在やはり世界の過去現在未來と共に生滅変化を継続しているが過去は現在へ現在は未來へと作用していて別々でも一体でも、ない。

以上これが現成公案であり身心脱落であり因果であり盡十方界真實人體であり生死去來真實人體であり父母未生前であり本來の面目であり不生不滅であり修證であり、ようするに佛道です。
それをナンでもかんでも あるがまま と呼ぶ現状肯定にしてみたり諸々の事象は心に映ってるだけだと閉塞的に説いたり霊魂は不滅だとオカルトじみたり、そういうのは自然見の外道とか先尼の邪見であると何百年も以前から祖師が明らめてる。 祖録や聖典よまないで老師たちの提唱きいて半端に了解して満足こいてると、ついには諸法無我を 我なくして諸法なし などと誤解してしまう。
禪とは自己満足の世界などでは、ありません。 修證とは身心の実践と体験です。

禪は武道に通じてます。 それを違うという人ら、たいがい禪を知らない武道家か武道しらない僧侶ばかりだし。 知らないなら、だまってりゃいいのに。 だまってると不安なのかな。
禪と武道が通じてるというのは、他者から与えて与えられず自身の中から勝手に生えてくるもんでもないものを身心で実践し体験して學ぶこと、そのため目標と教えと仲間が必然であること、肝腎要なのは、絶えず暇なく変化して固着せず、なお変化に動揺して迷わない、これを真髄とする点です。
つまり身心一如、佛法僧、應無処住而生其心です。
それを知ったかぶりが、いわく 坐禪とは坐って身体を固定して心は集中している、それが身心一如であり武道は身心を逆転させるから禪とは異なる などと誤解を誤解と知らずクチにする。
あのね、いっぺん坐ってみてくださいよ。 もちろん独り勝手にやるんじゃなく正しい指導の許で。
たしかに坐禪は坐って身体を固定してるけれど逆に心は身体にふり廻されなくて自由に解放でい。
身体も心にふり廻されなくて自在に制御なんでい。 これを知らずに本かくと恥かくぞ。

佛道をコトバなどの記号(文字)や信号(音聲)に変換してデータ化するのは、むつかしいものです。
このエントリ作業しててチョーむつかしかった。 ま、こんなとこ。
たとえば、わけのわかったようなわからんような禪書なんかよむよりカール・セーガンていう人(故人)かいたCOSMOSていう本、これのほうが、よっぽど佛道テイストあふれてるので推薦しときます。
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    まあ…あれですな
    皮膚呼吸って奴?
    ハハハ( ̄▽ ̄)v

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