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お前はもう禮拝している

某正義の大国では史上初、有色人種の大統領が生まれました。
私はあの国って独善的で暴力崇拝で大キライなんですが、これは快挙だと、そう感じる。
歴史あさい、あの国にくらべて我國は一体ぜんたい、どうなんでしょ。 んーぬ(ーー;)
かなり差別は解消されつつある、そんな風に聞いたり読んだりはするけれど、いつまでたっても戦前の日本と変わり映えしない、あいかわらず階級と隔離、そんな印象まぬがれないです。

いちいち身のまわりの実例あげたりしないですが、いまだ性差別、出身地域の差別、職業差別、病人や老人への差別、これ涯てしなくキリがナッシングなのだ。 これでいいのか八百萬の神まします豊葦原瑞穂(ぷっ)の國が。 税金も保険も年金も払って選挙投票してるイチ國民として私、マジで情けなくなる印象派です。
たとえば私の父方は摂津山奥の旧家の一つだけど、この人ら(親爺ふくめて)の差別観すごい。
平成にもなって時代錯誤なくらい、メマイするくらい低度ひくいです。 しかしウチの親戚に限った話しじゃなくて、そんな人ら、阿呆なことクチにしたり考えたりしてる人ら、ゴロゴロありふれてる。
その代表格が政治家たち、別だん与党だけじゃない。 そしてТVの情報番組に出演してコメントする人ら、ネットでグダグタいってる人ら、もう枚挙に暇乞いしたくなっちゃう。 こいつら、一度
母親の胎から出なおして来い
ていうか豆腐の角に激突して阿呆につけるクスリつけて、あたらしく生まれかわれ。

じつは我國だって1240年(鎌倉時代前半)の昔に差別の下らなさ馬鹿バカしさを説いた人が、いてたんです。 この人は上流階級に生まれましたが家をはなれ、やがて海外へ留學し、ひろく拡く世の中をみつめ歸國すると、すくなくない人が慕って集まり、いまもその名を遺してる。
永平道元禪師です。
きょうは、この人がかき遺したものの一つを紹介してみます。 といっても私は提唱できる格なんかじゃ到底ないので、ただの私訳を掲載するだけ。 それも、ほぼ直訳です。 禪書は直訳しとかないと誤訳の元になる。 できるだけ直訳しないと、それが訳した人の解釈になるから。
ただし語句について註とかは入れときますし参考になるような点も附記を附記として追加しときました。 ちなみに文中に田夫野人農夫樵翁という件り、これは道元禪師が職業差別してるのでは当然なくて当時これらの人ら、ほぼ完全に識字できず(江戸時代になって我國の識字率は世界最高水準となるが、それも都市部のみ)本よんで勉學して教養を身につける機会ゼロだという現実の、あらわれであり、じじつ禪師が崇敬してやまぬ六祖曹谿山慧能も初めは識字できない貧困層の人でした。
また小國辺土の國王とくり返しあるのは、いうまでもなく天皇です。
道元禪師の著作を恣意的に換骨奪胎して、あたかも道元禪師が皇室崇拝してたみたく独自の主張する人もいますが、それはただの バチあたり です。
(正法眼藏 禮拝得髄の巻 現代口語訳↓クリック)
(つづき)
 得髄の師
正しく完全な無上の悟りを修行する折には導く師を得ること最も難しい。 その導師は男女などの姿ではなく傑物そのものであり昔も今も人ではなく變幻であって高であることが髄を得た境地であり良い師であり原因と結果に暗くなく主觀客觀を超えるものだ。
既に導師と出会って以降は諸々の関りを投げ棄て寸暇を惜しんで修行に精進し心でも無心でも半心でも修行すること。 そうなれば思うことなく懸命に學ぶものだ。 この通りにすれば誹謗する邪惡な者共に汚染されず得髄した祖師が他者ではなくなり脱落身心の師は自身となっている。
髄を得ることえを傳えることは必ず決って真心により信心による。 真心の信心は他から來た例なく内から出るものではなく本當にえを重くし身を軽くするだけである。 世俗を避け道を住処とするのであり少しでもえより重く身を氣にかけるならえが傳わらず道を得ることはない。 そのえを重くする志氣は一つではなく他の訓を頼らなくても少し一、二を採り上げてみる。
えを重くするというのは例え何であっても大いなるえを護り務めて髄を得たものあれば身心を床坐として無限の時を仕えるのである。 身心は得やすく世界にありふれていてえは遇うことが稀である。
 この上ない境地を説く師に会おうとするなら生れを見極めることなく容姿を見ることなく欠点を憎むことなく行ないについて考えることなく智慧だけを尊重するので日々最上の布施をすること、日々三回に禮拝し敬って少しも思い患わないこと、この通りすれば最上の境地の道は必ずみつかる、私は發心して以来この通り修行して現在は正しく完全な無上の悟りを得ているのである
と釋迦牟尼佛はいった。
したがって樹にも石にも田にも里にも説いてほしいと願い求め堂の柱に質問し牆壁を以っても参究すること。 むかし帝釋天は野狐を師として禮拝し教えを問うことがあって大菩薩の称が傳わっている。 生れの尊卑と関係ない。
であるのに佛法を聞かない愚俗の類が思うのは、我は大僧侶であり年少の得法者を拝せない、我は永年の修行者であり得法した後學者を拝せない、我は師号に列なり師号のない者を拝せない、我は法務司であり得法した他僧を拝せない、我は僧正司であり得法した在家を拝せない、我は修行階位を持ち得法していても尼僧などを拝せない、我は帝位の血族であり得法していても臣下の僧を拝せないという。 このような愚者は無駄に母国を離れて他国の道路に放浪するので佛道に触れることはない。
(註)修證義の第四章發願利生と第五章行持報恩に引用される節であり、やはり明治生まれの修證義からは
我は帝胤なり得法なりとも臣家相門を拝すべからずと云ふ斯の如くの癡人徒に父國を離れて他國の道路に趻跰するに拠りて佛道を見聞せざるなり
が割愛されている
野狐精…變幻自在の姿 大修行の卷を参照
不昧因果…大修行の卷を参照
爾我渠…汝我彼つまり彼我の二見を超えた境地
頭燃…煩惱
翹足…駆け足
斷臂得髄…二祖慧可が肘を斷って達磨に誓願して入門を許され髄を得た雪中断臂の故事 寶林傳の卷八など
若樹若石…涅槃經聖行品より
若田若里…妙法蓮華經随喜功徳品より
野干…野狐 法句譬喩經の卷一より

 参學の勝躅
むかし唐の趙州従諗禪師が發心して行脚に發足した折、たとえ七歳であっても我より勝れていれば彼にわろう、たとえ百歳であっても我より劣るならば彼にえよう、といった。 七歳にえを問うとき年長者は禮拝しなくてはならない。 殊勝の志氣であり古佛の心術である。 得道得法の僧侶が現れたらえを求め學ぶ僧は門下に参加して禮拝しえを問うのが参學の勝れた範である。 たとえば渇いて飲みものに会うようなものである。
震旦國の志閑禪師は臨済門下の長老である。 臨済が禪師の来るのを見た折に捉まえると禪師は了解したといい臨済が放して少しゆっくりして行けといって門下となった。 臨済の手許を放れて末山了然へ参じると末山が、どこから来たと問うて「路口」と答え末山が「君はなぜ蓋をして来ない」といい禪師は無言ですぐ禮拝して師資の禮をとった。 禪師は逆に末山へ「末山とはどんなものか」と問うて末山は「頭を出さない」といい禪師が「山中の人とはどんなものか」というと「男女などの姿ではない」と末山はいい禪師が「あなたはなぜ變化しない」というと末山は「私は妖怪ではなく變化しない」といった。 禪師は禮拝し發心して園頭を三年務めた。 後に指導を始めたとき門下に示して、私は臨済爺の許で半杓を得て末山婆の許で半杓を得て合わせて一杓として頂戴し今もう満腹である、といった。 今この言葉を聞いて往古を偲んでみると末山は高安大愚の高弟であり門流の力あって志閑の婆となり臨済は黄檗希運の法嗣であり修行の力あって志閑の爺となった。 爺とは父であり婆とは母である。 志閑禪師が末山了然尼を禮拝し教えを求めたのは志氣の勝れた範であり後學が習いとする心得である。 急處を撃ち破るというものだ。
(註)趙州従諗は馬祖道一門下で南泉普願の法嗣であり百丈懐海や黄檗希運と同じく臨済祖の法系を汲む
末山了然は尼僧である 景徳傳燈録の卷十一

 得道はいづれも得道
妙信尼は仰山慧寂の弟子である。 仰山が廨の院主を選ぶとき誰が適任か諸歴任者達に広く問うた。 問答が往ったり来たりして仰山は最後に信尼は女性といえども傑物の志氣あり廨院主とするに相應だといって諸僧みな應諾した。 けっきょく妙信尼が廨院主に配任され、その時に仰山の門下にある高弟達は不満と思わなかった。 少しも大きな職ではないが選ぶ本人としては慎重だったはずである。
着任し廨院にいるとき蜀の僧十七名いて集団を組み師を尋ねえを訪ね仰山に登ろうとして夕刻に廨院へ泊まり息抜きの夜話しに曹谿高祖の風幡の話しを採り上げて十七人各々いう事みな間違いであった。 そのとき廨院主は壁の外で聞いて、十七人の解らず屋は惜しいことに幾つ草鞋を費やしたのか佛法をまだ夢にも見ていない、といった。 雑役人がいて廨院主が僧を否定するのを聞いて十七僧へ告げると十七僧そろって廨院主が否定したのを不満と思わず自身の間違いを羞じてすぐ威儀を正し焼香禮拝して請い訊ねた。 廨院主は、そばに来なさい、といい十七僧が近づく歩みの止まる前に
 これ風の動かず、これ幡の動かず、これ心の動かず
と説けば十七僧そろって考えるところあり禮を謝して師事の作法を採り急ぎ蜀へ帰って仰山に登らなかった。 じつに修行階位の及びではなく佛祖正統の言動である。 したがって今も住持及び副住持が空席の時は得法した尼僧を招くこと。 僧が高年で長老であっても得法しないのは役に立たず諸僧の主人たるは必ず明眼に拠る。 であるのに村人の身心へ同化したのでは頑固でいて世俗でも笑おうことが多く況してや佛法ではいうまでもない。 また女性及び姉姑等の傳法の師僧を拝さないでおくと仮定するのもいるだろう。 これは知ることなく學ばないからで畜生には近く佛祖には遠いのである。 ひた向きに佛法へ身心を投げうつことを深く蓄える心としたなら佛法が必ず人を憐れむことになる。 愚かな人々神々でも誠を感じる思いがあり諸佛の継承者には心が通じ合う憐れみあるもので土石砂礫にも誠を感じる精神はある。
いま大宋国の寺院に参學している尼僧がもし得法したという評判あれば官吏から尼寺の住持に就くよう命が下りてすぐ寺で上堂する。 住持以下諸僧みな上参して立ってえを聴けば問うのも尼僧であり古来の規定である。 得法したならつまり一つの本物である古佛であるから昔の誰として会うものではなく彼女が我を見れば新境地で接し我が彼女を見れば今日は今日で對するものだ。 たとえば真理の髄を傳え護っている尼僧は四段の境地や縁覚および三位の賢や十地の聖位も来て禮拝しえを問うのでこの禮拝を尼僧は受けるものだ。 男性が何を以って尊いのだろう、虚空は虚空であり四大は四大であり五蘊は五蘊であり女性もまたこの通りで得道は誰でも得道である。 ただ誰でも得法を敬い重んじて性別を論じてはならない。 これが佛道の極めて巧緻な法則である。
(註)
妙信尼…出典不明
廨…禪院の応接、宿泊施設
風幡の話…景徳傳燈録の卷五より曹谿山慧能の言葉で不是風動、不是幡動、仁者心動耳(人の心が動くのみ)
四果…通の卷を参照
支佛…辟支佛、つまり独學で證入する小乘の聖者
四大…萬物の構成要素つまり地水火風
五蘊…人間の構成要素つまり色受想行識

 得法を敬う
また宋朝では在家の人を居士という。 家に住んで結婚しているのもあり独身もあってまだ煩惱多しといえる。 しかし究めている者へ出家が集って禮拝し惠みを請うことは出家の先生と同じであり、たとえ女性でも何者でもそうあるものだ。 たとえ百歳の老僧でも、まだ佛法の道理を夢にも見ない者は得法の在家に及ぶものでなく敬うものでなく単に主客の禮だけである。
たとえ七歳の女性であっても佛法を修行して説ける者は、つまり在家出家衆の導師であり生きとし生けるものの保護者であり、たとえば龍女成佛の通りで布施し敬うことは諸佛如来に同じでなくてはならない。 これつまり佛道の仕來りであり知らず傳承しない者は憐れなものだ。
また和漢の古今に女帝があり、その国土みなこの帝王の所領で人みな臣下となる。 これは人を敬うのでなく職分を敬うのであり、尼僧もまたその人を敬うことは昔からなくて単に得法を敬うのである。
また聖者となった尼僧あれば四段の境地に拠る善行の報いすべて来る。 善行の報いさえ随うのだ、人もも誰も境地の価値より勝れることなく三界の諸みな及びではない。 そして出家する者は諸みな敬う處であり如來の正しいえを傳來し求道の大いなる心を興そう者を誰か敬わない者があろうかいうまでもなく、これを敬わない者は自身が不思議であり自身が無上の境地を敬わなければえを謗る愚者である。
また我國には天皇の娘や大臣の娘が后宮に準じる者あり皇后が院号した者あり髪を剃った者あり剃らない者ある。 しかし名を貪り利を愛する僧侶に似た僧侶がこの家門に走れば頭を履物に打たないということなく家來よりもっと劣り、また奴僕となって歳を取るのも多いことはいうまでもない。 小さな國の隅に生れればこのようなことが邪風とも知らないことは憐れなものである。 印度中国にはかつてなく我國だけであり悲しいことだ。 髪を剃ってまで如來の正しいえを破るのは重ねて深い罪業だといわざるを得ず、これは単に世の虚しいことを忘れているので女性の奴僕として縛られており悲しいことだ。 空である世のためにこの通りしており、なぜ無上の境地のために得法の敬うべきを敬わないのだろう。
これはえを重んじる志が浅くえを求める志が狭いからで既に寶を貪っていると女性の寶であれば手に入らないと思わない。 えを求めるなら、そんな志より勝るものだ。 えを求めれば草木牆壁も正しいえを施し天地萬物も正しいえを与える。 必ず知るべき道理である。 真の善知識に遇ってもまだこの志氣を立ててえを求めないときはえの潤いを授からない。 細かに詳しく修行すること。
(註)修證義の第四章發願利生に引用される節であり、やはり明治生まれの修證義からは
また和漢の古今に帝位にして女人あり(中略)また我國には帝者の娘(中略)なほ主従よりも劣なり況やまた奴僕となりて歳を経るも多し憐れなるかな小國辺地に生れぬるに斯くの如きの邪風とも知らざることは
が割愛されているばかりか現代口語訳でも、また我國には帝者の娘云々、の下りは抜かされている
龍女成佛…妙法蓮華經提婆達多品

 女人何の咎かある 男子何の徳かある
また今、愚の至って甚だしい人が思うことに女性は淫を貪る対象であると思う心を改めないで女性を見る、佛弟子はこのようにあってはならない。 淫の対象となるものとして忌むなら男性すべてもまた忌むものか。 汚染の因縁となることは男も女も対象となり男でも女でもないものも対象となり絵空事も対象となり水影を縁として不浄を行うことも太陽を縁として不浄を行うこともあり神も鬼も対象となり、その縁は数え切れず八萬四千の対象があるといい、これすべて斷ち切るものか見てはならないのか。
律にいう
 男の二所と女三所は共に破誡の追放だ
したがって淫の対象になるものとして嫌うならすべての男性と女性と互いに嫌い合ってもう佛道に入門する機会あるものでなく、この道理を詳しく点検すること。 また異教徒も妻のない者があり妻ないといっても佛法に入ってなければ誤った見解の異教徒である。 佛弟子でも在家の男女には夫婦があり夫婦あっても佛弟子であれば人々神々にも肩を並べる他者はない。
また唐の国にも愚人僧がいて誓願を立て一生他生現世来世ながく女性を見ないという、この願は何の教えに拠るのか世間か佛門か異教の教えか神なのか魔の教えに拠るのか女性に何の落ち度があり男性に何の美点があろう、惡人は男性も惡人である者あり善人は女性も善人である者あり教えを聞くことを願い解脱を求めることは決して男女に依らず、もし惑いを斷っていないとき男性女性同じに惑いを斷ってなく惑いを斷って理を体験するとき男性女性に区別は全くない。 また長く女性を見まいと願うなら
 限りない生きとし生けるものを誓い願って救う
ときも女性を棄てるものなのか、棄てては菩薩ではなく佛の慈悲といえるのか、これは単に聲聞が酒で深く酔った酔狂の言葉であり人も神も本當だと信じるものではない。
また昔に罪を犯したとして嫌うなら菩薩すべてを嫌うべきであり、もし後に罪を犯すはずとして嫌えば發心する菩薩すべてを嫌うべきである。 この通り嫌うならすべてみな斷ち切るだろう、何に依って佛の教えを明らかにするのだろう、この通りの言葉は佛の教えを知らない愚者の戯言であり悲しいことだ。
もしこんな願の通りなら釋尊と當時の諸菩薩みな罪を犯していたのか、また悟りを拓く心も浅かったのか、落ち着いて見極め判斷すること、經を傳え授かった祖師と當時の菩薩にこの願がないので佛の教えを習う価値があると参學することである。 もしこんな願の通りなら女性を救済しないだけでなく得法の女性が世に出て人や神のため教えを説こうときも来て聴かないものなのか、もしも来て聴かないなら菩薩ではなくつまり異教徒である。
いま大宋国をみると永年の修行者に似た僧侶が虚しく海の砂を数えて生涯を流浪している者あり女性であっても知識を尋ね訪れ修行し人や神の導師たる者あり餅を売らず捨てた老婆などあり男性の僧侶であっても無駄に教えの海砂を数えて佛の教えは夢にも見ていないとは憐れなものだ。
だいたい対象を見たら明らかにすることを習うこと。 怖じて逃げるとだけ習うのは小乘の聲聞の教えと行である。 東を棄てて西へ隠れようとすれば西にも対象がないではなく、たとえ逃げたと思って明らかにしてないなら遠くても近くても対象である。 まだこれは解脱の範疇ではなく遠い対象は況々深まるであろう。
(註)
聲聞…独學で證入する小乘の聖者
波羅夷…僧伽からの擯斥
衆生無邊誓願度…四弘誓願文の一、六祖檀經など
餅…心不可得の卷を参照

 誑惑世間人の至愚
また日本國に一つの笑いごとがある。 いわゆる結界の地とか大乘の道場と称して尼僧、女性などを立ち入らせない。 邪風が長く傳わって人に心得がない。 學道修行の人が改めず博識の學者も考えていない。 権化の行ないと称したり先達の遺風と名づけてもっと論じないのは笑えば人の腸も裂けるはず。 権化とは何者か、賢人か聖人か神か鬼か十聖か三賢か等覚か妙覚か。 そして旧式を改めないものなら生死流転をも斷ち切れないものなのか。
いうまでもなく釋尊大師は無上の正しい等覚であって明らかにすべきは尽く明らかにし行なうべきは尽く行ない解脱すべきはみな解脱していた。 今の誰が足許にも及ぶだろうか。 それでいて當時の佛門には男僧尼僧在家男女すべての四衆があり八部衆あり三十七尊あり八萬四千衆あってみなこれが佛界を結んで一つの佛門であり、どこの門下に尼僧なく女性なく八部衆ないのだろうか。 如来が在世した佛門よりも勝って清浄であろう結界を我らが願うものではない、神も魔もいる世なのだから。 佛門の教儀は現世も他世も過去現在未来の千佛も違いはない。 違っている教えあれば佛門ではないと知ること。
いわゆる四つの惠みは極めた位であり大乘でも小乘でも極位の善行の価値を区別しない。 それでいて尼僧に四つの惠みを体験する者は多い。 三界の内でも十方の浄土でも何界に至らないだろうか。 誰が彼女の行く手を阻むことあるだろう。 また妙覚は無上の位であり既に真理を得た女性が諸方どこのものを究め尽くせないだろう。 誰が彼女を阻んで至らしめまいと図るだろうか。 既に十方あまねく照らす善行の価値あり境界をどうするのだろう。
また天女神女をも阻んで至らしめないのか。 天女神女もまだ惑いを斷つ類ではなくさらに流転する衆生であり罪を犯すときは犯して犯さないときは犯さない。 人の女も畜生の雌も罪あるときはあって無いときは無い。 天の道、神の道を阻もう人は誰か。 既に過去現在未来の佛門に参詣し道場に参學して佛門道場に違いがあるとは誰が佛の教えとして信じ受けるだろう。 これは単に世間の人を誑かし惑わせる愚の至りであり野狐が窟穴を人に奪われまいと惜しむより愚かである。
また佛弟子の位は菩薩であっても仮に聲聞であっても第一が僧侶、第二は尼僧、第三に在家男、第四を在家女の通りで神も人も知っており長く聞えている。 ということは佛弟子第二の位は理想の王よりも帝釋天よりも勝れているはずで至らない處あるはずがない。 小國辺境の國王大臣の位と並ぶものでないことはいうまでもない。 そこで尼僧は入ってはならないという道場をみれば田夫野人農夫樵翁が入り乱れている。 ましてや國王大臣諸官吏宰相の誰が入らないだろう。 田夫などと尼僧と學道を論じ得位を論じれば優劣の結果はどうだろう。 たとえ世俗の教えで論じても佛の教えで論じても尼僧の境地へ田夫野人が無理に至るはずはない。 本末転倒の甚だしいことで小國が初めてこの例を作る。 三界の慈父の継嗣が小國に生れると阻んで至らしめない場處があって憐れなことだ。
またその結界と称する場處に住んでいる輩は十惡を憚ることがなく十重禁誡をいちいち犯す。 単に罪造りな結界であって罪を造らない人を避けるのか。 道外れの罪が重いことはいうまでもない。 結界の地に住んでいる者は道外れの罪も造っていることだ。 こんな魔界は本當に破らなければならない。 佛の心を學んで佛の界に入るものだ。 まこと佛の恩に報いるであろう。 結界を設けた先達は結界の意味を知っていたのか否か。 誰から受け継いで誰が印可を賜るのか。
いわゆるこの諸佛が結んだ大界に入る者は諸佛も生きとし生けるものも大地も虚空も囚われを脱却し諸佛の巧緻な教えに回歸するのである。 したがってつまり、この界をいったん踏む生きとし生けるものは、いながらにして佛の惠みを賜るのである。 違背しない善行に与えられる佛の惠みあり清浄を得る善行に与えられる佛の惠みがある。 一つ結べばつまり全宇宙すべて結ばれ一たん結べば全宇宙すべて結ばれるのである。 水を以って結ぶ界があって、または心を以って結界することがあり、また因縁により変化する実體のないものを以って結界することがあった。 必ず継承相続して知らなければならないことがある。
いうまでもなく結界するとき甘露を注いでから歸依の儀を延べて天地浄化などして
 ここの界とあまねく全宇宙を結んで因縁に依らず生滅変化せず絶對の清浄である
と頌を唱える。 この意味を現在の日頃から結界と称する旧式な老人は知っているのか否か。 思うに彼らは結んだ中へあまねく全宇宙が結ばれていることを知らない様子である。 彼らは聲聞の酒に酔って小さな界を大宇宙と思うのだと知れる。 さっさと日頃の酩酊から醒めて諸佛の大界である全宇宙に違背しないでもらいたい。 受け容れ導く救済で生きとし生けるものすべて影響を賜るだろう佛の惠みを禮拝し丁重に敬うこと。 これを教えの真髄を得ると誰がいえないだろうか。
(註)修證義の第四章發願利生に引用される節であり、やはり明治生まれの修證義からは
しかあるを佛弟子第二の位は転輪聖王よりも勝れ(中略)いはんや小國辺土の國王大臣の位に並ぶべきに非ず(中略)小國初めてこの跡を遺す憐れむべし三界慈父の長子小國に来たりて塞ぎて至らしめざる處ありき
が割愛されている、ばかりか現代口語訳でも小國辺土の國王云々の下りは曖昧だったり抜かされている
十聖…十聖も三賢も等覚も妙覚も菩薩修行の位階
八部衆…諸天、龍、鬼神などの存在
転輪聖王…理想の王
釋提桓因…帝釋天
茲界遍法界 無為結清浄…結界の頌、出典不明

以上。
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    まあ…あれですな
    皮膚呼吸って奴?
    ハハハ( ̄▽ ̄)v

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